演奏会
聖書と詩篇
聖書はキリスト教の教典のことで、「旧約聖書」と「新約聖書」の二つの部分から出来ています。これは、ひとりの人が書いたのではなくて、何世紀にもわたって多くの人の手によって書かれた書物が編纂されて完成しました。
この「約」というのは、「契約」という意味で、創造主が人と結んだ契約ということです。「旧約」は、「旧(ふる)い契約」と言う意味で、「新約」が「新しい契約」という意味です。
◆旧約聖書とは
創造主が預言者に与えたメッセージを集めたもの。預言者とは創造主のメッセージを霊感で受けて預かる人たちのことで、「未来を予言する」の「予言」ではありません。
イエスが生まれる前のユダヤ人のことが書かれていて、もともとユダヤ教の教典でした。ですから旧約聖書はヘブル語(ヘブライ語)で書かれていました。しかし、のちに興ったキリスト教団が、「イエスについて預言したもの」だからということで、キリスト教の教典に収録しました。
旧約聖書の契約とは、律法(モーセの十戒を代表とする創造主の命令のこと)を守って生きれば、物質的な祝福を与えるという約束のこと。
◆新約聖書とは
イエスの伝記や、イエスの教えを伝道するために書かれた手紙などを集めて編集したもの。イエスの死後に弟子たちによって書かれました。こちらはギリシャ語で書かれています。
「新しい契約」が約束しているのは、イエスの言葉を心に受け入れれば、霊的・物質的両面での祝福が与えられるということです。
◆「詩篇」は旧約聖書の中の文書で、ユダヤ人によって収められた150篇の賛美、祈り、感謝、悔い改め、また神に対する信頼と愛情を表す詩によって構成されています。これらの美しい詩には、神に選ばれた民が、全知全能であられる創造主のもとでどのように成長し、学び、礼拝していたのかが巧みに描写されています。
詩篇が世界中で愛されている理由の一つは、その詩の言葉が神の言葉でありながら、限りなく人間の視点で表現されているという点にあるでしょう。
実際に詩篇を読んでみると、歌集というよりも、著者たちの信仰生活を綴った日記のようです。そこには神と共に歩む人が体験するさまざまな感情が、生々しく書かれています。喜びや感謝の心だけではなく、憤りや恐怖、後悔や失望した心によって執筆された詩篇も数多くあります。そして、さまざまな状況の中でどのようにして神に信頼し、畏れる心を持ち、主に希望を持つことができるのかが書かれているのです。
ヨハン・フランクの作詞によるコラール「イエスよ、わが喜び」(1650)の6つの節を核に、新約聖書『ローマの信徒への手紙』第8章からの章句を歌詞とした多声楽曲で注釈を加えるという構成をとる5声のモテットは、バッハがライプツィヒのトマス・カントルに着任して間もない1723年7月18日に執り行われたライプツィヒの郵便局長夫人ヨハン・マリア・ケース(旧姓ラッポルト)の埋葬式のために書かれたという説もあるが、確証はない。オリジナルな資料は失われており、1735年頃に書かれたと思われる筆写総譜が最も古い。したがって、成立はそれ以前であることは確かである。シンメトリカルな構想を持つ全11曲の中心をなす第6曲には5声のフーガが置かれている。
「イエスよ、わたしの喜び」と歌うコラールの第1節は長大なモテットの標題をなす。イエスとともに生きるものは「罪に定められることはありません」と歌う第2曲の強い表出は、「いかなる(罪に定められることは)ない」を意味する“nichts”の反復による圧倒的な効果がもたらすものだ。「肉に従って進むのではなく」の「進む」を意味する“wandeln”に与えられた長い音型による強調も効果的だ。
同じコラールでも、第3曲「あなたの加護のもと」では「サタン」「敵」「雷」「稲妻」といった言葉にふさわしい音型による修飾がみごとである。「霊の法則」を歌う第4曲はソプラノ2声とアルトによる3声によって「霊」のイメージが巧みに描かれている。「竜よ、死の淵よ、恐怖よ」と叫ぶコラールの第3節を歌う第5曲に続いて、「肉ではなく霊の支配下に」と歌う第6曲の二重フーガは、すでに述べたように全曲の中核にあたり、モテットの中心的な精神が述べられる。
第7曲のコラール(第4節)は「すべての財宝よ、去れ」とキリスト者の決意が表明されるが、ここでも「苦しみ」「艱難」「十字架」等のイメージが<ため息>の音型によって描かれる。
「霊は義によって命となる」と歌う第8曲は、第4曲とシンメトリーをなす3声曲だが、ここではアルト、テノール、バスの3声部による。「罪によって死んでいる体」と「義によって命となる<霊>」という相反するイメージの対照がみごとに表現されている。続く第9曲は4声だが、通奏低音とバスを欠いた上4声によって、この世からあの世への移行が美しく表現される。「自堕落な生活」という語をめぐるフガートがアクセントをなす。歌詞はコラールの第5節だが、コラール旋律はアルトによって定旋律として示される。
第10曲の音楽は第2曲のそれと共通であり、第11曲のコラール(第6節)も第1曲と同じだから、全体のシンメトリーは鮮明に示され、どんな苦しみにあっても「イエスよ、あなたはわたしの喜びであってください」と歌いながら、壮大なモテットが完結する。
***アンサンブルクライス第1回演奏会プログラムより
(1995年9月15日川口リリア音楽ホール)
序言
モーツァルトによるヘンデル作品の編曲は、特に興味深いものである。これらの曲はヘンデルの作品中もっとも完成度の高いものとされ、その編曲はモーツァルトの創作活動における最後の時期にあたるからである。
モーツァルトがヘンデルのオラトリオを編曲したのは、すべてゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼があったからである。モーツァルトはすでに子どもの頃に、ウィーンでヴァン・スヴィーテンと知り合っている。ウィーンに居を移してから、モーツァルトはたびたび日曜音楽会(マチネ)に通い、ヴァン・スヴィーテンの豊富な蔵書、なかでもバッハとヘンデルの作品から、自らの芸術のために有効な刺激を受けとった。
1780年代のはじめ、ヴァン・スヴィーテンとウィーンの貴族仲間が集まって、音楽愛好会を作った。個人宅で招待客のために開かれるその集いで、毎年 ― 1787年以降は好んでモーツァルトの指揮で ― 四旬節やクリスマスの時期にハッセ、C. Ph. E. バッハ、そしてとりわけヘンデルのオラトリオが演奏された。モーツァルトによる編曲も、これらの演奏会のために作られたものだった。1788年11月、モーツァルトはヘンデルの「アシスとガラテア」を編曲した。メサイアの編曲は1789年2月から3月初めに行われた。「聖ツェツィーリアの讃歌」および「アレクサンダーの饗宴」の編曲は、1790年7月であった。
メサイア編曲の初演は、1789年3月6日、ヨハン・エステルハージ伯爵の家で行われた。その後もスヴィーテン男爵の周辺で ― 1789年4月7日にはふたたびエステルハージ伯爵家、1795年4月5日にはヨハン・ヴェンツェル・パール侯爵家、1799年12月23日、24日にはシュヴァルツェンベルク侯爵の冬の離宮で ― 演奏されたことが、カール・ツィンツェンドルフ伯爵の日記から分かっている。
バロック音楽では、オラトリオは ― この点、オペラと似ているが ― 演奏のために編曲されるのが慣例だった。モーツァルトの編曲も、この伝統にしたがっている。まず独唱部分が変更されねばならなかった。すなわち、楽章ごと移調する、短縮する、新しい楽章を補うなどである。楽器編成はオーケストラの質に合わせて決められた。音楽的な規則にある程度のっとっていれば、指揮者は自由にいずれかの声部を別の楽器で補強してよかった。したがって、ヘンデルのオラトリオを演奏せよとのヴァン・スヴィーテンの依頼には、したがって、この作品を適切に編曲せよとの要請も含まれていたことになる。創造(作曲)と再現(演奏)の能力は当時、別々の音楽家の表現形態とは見なされていなかった。むしろ芸術家は古くからの習わしにしたがって、作曲家としても、演奏家としても同じくらいすぐれていなければならなかった。
ヘンデル作品の合唱部分の編曲には、バロック期のインストゥルメンテーションの特徴が見られる。モーツァルトは、当時の言い方によれば、「ハーモニーに乗せ」ている。ホルンとトランペットの豊かな音に木管楽器が加わり、これらがたいていユニゾンで合唱の上声部に随伴する。これはバロックの「合唱斉唱」(Chori pro cappella)、すなわちリピエニストも共に歌う、全員斉唱の編成を思い起こさせる。オルガンの響きに匹敵する効果を得るために、こうした斉唱部分はユニゾンで補強するのが通例だった。この伝統から、モーツァルトによるメサイア編曲において、トロンボーン・パートが斉唱のアルト、テノール、バスにつねに付き従っていることも説明しうる。
モーツァルトは演奏上の都合を考慮して、ヘンデルのメサイアの総譜を一部省略する気になったのかもしれない。削られたのは、合唱「永遠の息子をほめたたえよ」、アリア「汝は高みにのぼりて」、およびアリア「ラッパは高らかにひびく」の途中部分である。アリア「神われらの味方なれば」をモーツァルトはレチタティーヴォに変えている。同時代の他の作曲家の編曲とくらべると、この程度の短縮は取るに足りないものである。モーツァルトが行ったこれらのわずかな省略のおかげで、曲全体が引き締まり、密度の濃いものになっているにもかかわらず、初版が出た際には猛烈な批判を浴びた。しかしながら、モーツァルトの編曲は特定の演奏の事情に合わせてなされたものであり、もともと印刷用ではなかったことを忘れてはならない。それはさておき、今日の視点からすると、まさしくこうした側面こそ、時代の変化の中で演奏の実際を示すものとして興味深い。
しかしモーツァルトは、実際の演奏でとうに「即興で」許されていたものをただ単に書き留めたり、または省略したりしたわけではない。フルート、クラリネット、オーボエはアリアの中で、全体の雰囲気の解釈者として登場する。ファゴットはしばしば本来の通奏低音の機能から解放されている。ヴァイオリンには新たなオブリガートのパートが与えられている。(第3部36番二重唱「おお、死よ」)。モーツァルトはとくアリアの音楽の流れを保とうと腐心している。バロック期の慣習として、ヘンデルの時代には、アリアのカデンツでは、独唱歌手が即興で技巧を披露するのをさまたげないよう、楽器は沈黙しなければならなかった。モーツァルトはこの点を変更した。伴奏パートを補い、カデンツに楽器を盛り込んでいった。(たとえば、第2部19番のアリア「なにゆえに争い」T.67等)
この時代の美学的要求は、自然の模倣ということである。聖書の言葉の選び方と、ヘンデルの曲の構想について、後の時代の私たちが説明をとってつけることは慎むべきだが、いくつかの兆しはある。10年後にハイドンが「天地創造」と「四季」を作曲した際と同じように、ヴァン・スヴィーテンがモーツァルトに、歌詞解釈のための方向性をあたえた可能性もある。
演奏の伝統と新たな時代の趣味、因習と流行が、モーツァルトの編曲を決定づけている。しかし、その完全な全体像をつかむには、モーツァルトがヘンデル作品の本来の音形(Klanggestalt)を変えるにいたった、いくつかの外的な要因をも考慮に入れなければなるまい。たとえば、トランペット・パートの変更がそうである。社会的な階層秩序の崩壊は、すでに特権的な管楽器奏者のツンフトの没落をもたらしていた。それがおそらく、クラリーノ(高音トランペット)という管楽器の演奏技巧が忘れ去られ、ヘンデルのトランペット・パートがモーツァルトの時代には演奏不可能とされた原因である。
調和のとれた古典的オーケストラに組み込まれたトランペットは、もはやかつてのように現世での地位や神の全能を表すシンボルとしての、輝かしい楽器ではなくなった。トランペットにあたえられた役割はいまや、オーケストラのひびきをハーモニー的、リズム的に支えること、しかも主として自然音(Naturton)の三和音でであった。バロック期の昔ながらのクラリーノの音色を保つために、モーツァルトは合唱部分ではヘンデル作品におけるトランペット・パートをおさえたり、時には軽やかな木管楽器で代用したりしなければならなかった。アリア「ラッパは高らかにひびく」の独奏パートを、モーツァルトは二度書き直し、最終的にホルンに決めた。当時、ホルンという楽器の演奏技巧の水準は、トランペットとは対照的に、かなり高いものだった。
ヘンデル作品中のオルガン・パートをそのまま残すことができなかったのも、外的な要因によるものだ。モーツァルトの編曲は、個人的な演奏会のためになされたものだったが、ウィーンの貴族の館にはふつうオルガンはなかったからである。
モーツァルトの時代には、チェンバロは独奏楽器であった。しかし、ここではチェンバロはレチタティーヴォの伴奏と、ヘンデルの通奏低音が編曲の中に取り入れられたいくつかの箇所でのみ使われたようである。
バーデン・バーデン、1999年7月
アンドレーアス・ホルシュナイダー
(翻訳 細井直子)